19 世紀後半から 20 世紀はじめにかけ、モネ、ゴーガンら多くの画家たちがフランス北西部のブルターニュ地方を訪れ、この地を作品に描きとめました。 |
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会期: 2023 3/18 [土]~ 6/11 [日] 展覧会は終了しました。 |
'2023 3_17 「憧憬の地 ブルターニュ展」 のプレス内覧会の館内風景の取材と、図録・資料などからの抜粋文章です。 |
No.95 シャルル・コッテ(1863-1925) 《悲嘆、海の犠牲者》 1908-09 年 油彩/カンヴァス 263 x 347 cm 国立西洋美術館(松方コレクション) |
コッテの代表作、やはり海難事故の絶えないサン島の波止場にて、溺死した漁夫を島民たちが弔う様子を伝統的なキリスト哀悼図に重ねて描き出す。 |
「憧憬の地 ブルターニュ―モネ、ゴーガン、黒田清輝らが見た異郷」展 |
【展覧会の見どころ】 ― 「憧憬の地 ブルターニュ」 図録、プレスリリースなどからの抜粋文章です ― |
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本展の前提として、出品画家の大半がブルターニュ出身者ではなく、パリやその近郊を拠点として中央の美術動向のうちに評価された者たちであること、つまり彼らにとってブルターニュは多かれ少なかれ 「他者」であったことを念頭に置いておきたい。 |
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19 世紀の最後の数十年間、最も革新的な画家たちは人里離れた場所を探し求め、地方の自然や歴史と特別な関係を築くことを求めていた。 |
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「憧憬の地 ブルターニュ」 の展覧会、全 1~4 章の構成。 |
'2023 3_17 「憧憬の地 ブルターニュ展」 のプレス内覧会の館内風景の取材と、図録・展覧会パネル、資料などからの抜粋文章です。 |
・画像をクリックすると 「Chapter Ⅱ. 風土にはぐくまれる感性: ゴーガン、ポン=タヴェン派と土地の精神」 の章のページが大きな画像でご覧いただけます。 |
【 Chapter Ⅰ. 見出されたブルターニュ: 異国への旅 |Brittany rediscovered: voyage to an “unknown” country 】 |
ブルターニュ地方が画家たちを惹きつけはじめたのは、19 世紀初頭のロマン主義の時代であった。 |
・No.36 クロード・モネ(1840-1926) 《 ポール=ドモワの洞窟 》 1886 年 油彩/カンヴァス 65 x 83 cm 茨城県近代美術館 / ・No.37 クロード・モネ(1840-1926) 《 嵐のベリール 》 1886 年 油彩/カンヴァス 65.4 x 81.5 cm オルセー美術館(パリ) |
・No.36 クロード・モネ 《ポール=ドモワの洞窟》 1886 年の 10 週間におよぶベリール島滞在中、モネはコート・ソヴァージュと呼ばれる海岸沿いの風景を繰り返し描いていた。 深い青色とエメラルドグリーンの穏やかな海、そして陽光を浴びる岩肌が橙・ピンク・黄・青といったきわめて色彩豊かな無数の筆触の並置により表わされている。 / ・No.37 クロード・モネ 《嵐のベリール》 近接した視点から、灰色がかった色彩と線条のストロークによって渦巻く嵐の海の動態が捉えられている。 |
'2023 3_17 「憧憬の地 ブルターニュ展」 のプレス内覧会の館内風景の取材と、図録・展覧会パネル、資料などからの抜粋文章です。 |
・画像をクリックすると 「Chapter Ⅳ. 日本発、パリ経由、ブルターニュ行: 日本出身画家たちのまなざし」 の章のページが大きな画像でご覧いただけます。 |
【 Chapter Ⅲ. 土地に根を下ろす: ブルターニュを見つめ続けた画家たち |Putting down roots: artists looking at Brittany all their lives 】 |
世紀転換期から 20 世紀初期にかけ、ブルターニュ地方でも徐々に進みつつあった観光・保養地化と、それにともなう生活基盤の整備と近代化は、都市部に暮らす画家たちがこの地に別荘や家をもって長期にわたり生活し、また制作することをいっそう容易にした。
さらに 1914 年に勃発する第一次世界大戦もまた、都市からの避難先としてこの地での逗留をうながしただろう。 第3章では、パリやその近郊の住まいとの往来の末、ブルターニュに別荘を構えた画家たちの作品を取り上げ、彼らの 「第二の故郷」 に向け続けたまなざしの行方を追う。 |
・No.79 モーリス・ドニ(1870-1943) 《 トンケデックのテラス 》 1913 年 油彩/カルトン 75 x 50 cm 国立西洋美術館(松方コレクション) / ・No.80 モーリス・ドニ(1870-1943) 《 ハリエニシダル 》 1917 年 油彩/カルトン 34.5 x 36.5 cm 国立西洋美術館(松方コレクション) / ・No.82 モーリス・ドニ(1870-1943) 《 ロスマパモン 》 1918 年 油彩/カルトン 36.5 x 49.7 cm 国立西洋美術館(松方コレクション) |
・No.79 モーリス・ドニ 《トンケデックのテラス》 1908 年、ペロス=ギレックの海を見下ろす高台に別荘 「シランシオ」 を購入したのち、画家は別荘やぺロスでの日常を好んで作品のモティーフとした。 ドニ―はぺロスの周辺地域もしばしば画題とした。 トンケデックは 17 世紀にリシュリューが取り壊した城郭の廃墟で知られる。 城跡からの眺めを描いたこの作品では、色とりどりの面で区画された平原が装飾的効果をあげている。 / ・No.80 モーリス・ドニ 《ハリエニシダル》 ハリエニシダとシャグマユリが咲き誇るシランシオの庭で男女が花束を受け渡す。 暖色と寒色との補色関係が生み出す色彩の調和、眩しい光の表現が、画面に夢想的な様相を与えている。 / ・No.82 モーリス・ドニ 《ロスマパモン》 タイトルにあるロスマパモンは、ブルターニュ出身の宗教史家にして 「ケルト民族の詩歌」 の作者、エルネスト・ルナンが暮らしたルアンネックにある別荘の呼称。 民家の庭先で戯れる子どもと犬の姿が水色とバラ色の和音のうちに表される。 |
'2023 3_17 「憧憬の地 ブルターニュ」 展のプレス内覧会の館内風景の取材と、図録・資料などからの抜粋文章です。 |
・画像をクリックすると 「Ⅲ-3. 「バンド・ノワール」 と近代ブルターニュの諸相」 の章のページが大きな画像でご覧いただけます。 | |
ブルターニュと画家たち ( La Bretagne カタログ「画家たちの大地、ブルターニュ」 、チラシなどからの抜粋文です。) | |
フランス北西部、太平洋に突き出た半島を核とするブルターニュ地方は、古来より特異な歴史文化を紡いできました。 断崖の連なる海岸や岩が覆う荒野、内陸部の深い森をはじめとする豊かな自然、各地に残された古代の巨石遺構や中近世のキリスト教モニュメント、そしてケルト系言語たる
「ブルトン語」 を話す人々の素朴で信心深い生活様式 ― このフランスの内なる 「異郷」 は、ロマン主義の時代を迎えると芸術家たちの注目を集め、美術の領域でも新たな画題を求める者たちがブルターニュを目指します。
以来この地は流派や国籍を問わず幅広い画家を受け入れることとなり、19 世紀末にはポール・ゴーガンを取りまくポン=タヴェン派やナビ派といった美術史上重要な画家グループの誕生を促しました。
またこの時代、日本は明治・大正期。 黒田清輝や藤田嗣治、岡鹿之助など日本から渡仏した画家たちもブルターニュを訪れ、この地に想いを得た作品をん残しています。
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画家たちの大地、ブルターニュ フランス西部にあるブルターニュの地理的条件、それに大西洋に突き出る半島は、それだけでブルターニュの独自性を感じさせるし、旅行者、作家、そして画家を惹きつけつけるだけの魅力をもっていたことを予感させる。 荒れる海にそびえる目もくらむ高さの断崖から、未開の荒れた地と内陸に広がる深い森にいたるまで、こうした風景によってブルターニュはフランスの中でも独自の位置づけを与えられている。 | |
ポール・ゴーガン(1848-1903) がポン=タヴェンに初めて滞在した 1886 年頃には、 1,000 人ほどの住民がいるこの村に、夏になると 100 人前後の画家が集まるようになる。 壁が絵画で覆いつくされていたホテルや旅館の雰囲気が特に似ていたことから、バルビゾン派になぞらえて、ポン=タヴェン派という言葉が口にされるようになる。 | |
クロード・モネ(1841-1926) が選んだのはベリールである。 モネはノルマンディーで過ごす習慣があったが、画商のポール・デュラン=リュエル(1831-1922) に助言されて、地中海やオランダに新たな風景を探して旅に出た。 そうしたモネは来る展覧会のため、冬が到来する前の一連の風景を描くべく、1886 年に初めてブルターニュを訪れた。 ベリールはモネにとって、数日だけ滞在する予定の最初の宿泊地だった。 同行する仲間を探していたわけではなかったので、島のなかで最も絵になる地のそばにある、僻地の小さな集落の旅館に泊まった。 | |
この島に住み着いていたオーストラリアの画家ジョン・ピーター・ラッセル(1858-1930) に声をかけられるのを、モネは良く思わなかった。 モネは刻々と風景を変える不安定な天候と潮の満ち引きによく悩まされた。 彼は一度に何枚もの絵画に取り組まざるを得なくなり、「連作」 の概念を考案したのだが、これが近代芸術の誕生において重要な節目となったことがその後明らかとなる。 モネの滞在期間は延びてゆき、最終的に 10 週間を越えることとなった。 | |
一方でポール・ゴーガンが同じく 1886 年にブルターニュにやって来たのは、この地に夢を見たのではなかった。 ゴーガンは深刻な金銭的な問題を抱えていて、ポン=タヴェンに 「避難する」 というもの、グロアネクの宿はつけで泊まれるという評判を聞いていたからである。 ゴーガンは 1885 年 8 月 19 日に妻メットにこう書いている。 「絵が何枚か売れたら、次の夏はブルターニュの窪みのある旅館に泊まって絵を描いて節約しながら過ごすよ。 一番安く暮らせるのはまだブルターニュなんだ。」 彼はこれを一種の亡命だと感じていたが描くべき主題がそこにあることもわかっていた。 | |
20 世紀最初の数十年間、芸術の世界とブルターニュ地方は特別な関係を結んだ。 そうした関係のうちのひとつは、カンペールで生まれた詩人マックス・ジャコブ(1876-1944)
に由来する。 パブロ・ピカソ(1881-1973) の親友で、キュビスムに至る芸術上の探究について直接知る人物でもあるジャコブは、毎年夏になると生まれ故郷に帰った。
これと同じ時期、ブルターニュはシュルレアリスムの作家や画家のお気に入りの目的地ともなった。 ロクロナン出身のイヴ・タンギー(1900-1955)
はこの地に友人を連れてきた。 アンドレ・ブルトン(1896-1966) はサン島とブロセリアンドの森に定期的に滞在しては、そこで自らの想像力を育む自然、歴史、伝説を見出した。
ロリアン近くの要塞フォール=ブロッケへ散歩したことが、『狂気の愛』(1937 年刊行) の中のエピソードのひとつとなっている。 今日、ブルターニュの自然の大部分は保護されていて、画家たちが描いていた風景や、彼らの創作意欲を刺激した建造物を見つけることができる。
ブーダン、モネ、ゴーガン、シニャックや、その他多くの画家たちの芸術をよく理解するための、この上ない環境がここにはある。 |
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参考資料:「LA BRETAGNE」図録・ 展覧会表示パネル、報道資料、チラシ など。 |
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